韓国最大の祭り晋州南江流灯祭
倭城を訪ねて
2013、10月
今回の旅で学んだこと。
1、知識として知っていた朝鮮戦争1950年~が悲惨極まりない戦争であったことを実感したこと。
2、豊臣秀吉の朝鮮出兵 (文禄・慶長の役)が現在の韓国社会にいまだ大きな影響を与えていること。
1日目 関空から釜山へ
 
 関空発12:20Peach航空にて釜山金海空港到着 軽電鉄で西部バスターミナルへ行き昼食。バスターミナルの晋州行きのバスを待つ長い列を見る。明朝は晋州への出発は早めた方が良いかも

釜山西部バスターミナル
晋州流灯祭へ行く人々の長い長い列
失敗その1
宿の予約
  韓国教室の仲間との旅なので、全員一人部屋を予約していたが、急に夫婦で参加することになった。ネットで予約したとき1人部屋を予約していたことを忘れていた。一人部屋は絶対に一人しか入ってはならないので、一人部屋代は捨てて、新たにダブルの部屋をとった。予約していた部屋はホテル業者の予約だったため、変更は不可能でその部屋代は捨てることになった。残念!


臨時首都記念館  地下鉄1号線 土城駅2番出口
  朝鮮戦争当時、北朝鮮に追い詰められて、首都を釜山に移した時の大統領府。
この戦争当時、避難を余儀なくされた市民の厳しい生活がジオラマえ再現されていたり、当時の記録映像が流されていて、その悲惨さを実感させられた。またこの臨時大統領官邸、臨時首都政府庁舎が共に日本統治時代、日本によって建てられた当時の近代的な建物であったことも興味深い。

この建物は1926年日本統治時代慶南道知事官舎として建設される

朝鮮戦争当時臨時首都の大統領官邸として使われた。
当時の大統領 李承晩の書斎
 
朝鮮戦争で避難してきた人々の生活を再現したジオラマ
 
大統領夫人プランチェスカー女史の韓服と生活家具
 

朝鮮戦争時の臨時首都政府庁舎
 
現在は東亜大学博物館
日本統治時代1925年慶南道庁舎として建設された。

チャガルチからBIFF広場へ
 
 この辺りは釜山国際映画祭の会場の一つになっているため大変な人出でにぎわっている。
 
BIFF(釜山国際映画祭)広場、釜山国際映画祭の真っ最中この広場に設けられたステージでなにかあるらしいが、大変な人だかりで何にも見えなかった。
 
BIFF広場の有名な監督、俳優の手形

 
BIFF広場周辺の屋台街
釜山国際映画祭期間中で、このBIFF広場の屋台も大変なにぎわい



釜山のホットクは有名。 おいしいよ!
 

夕食は豪快な貝の韓国鍋チョンゴルで  
 
光復路にある「海物天地」にて 
 
新鮮な貝類、イカ、タコ等が満載のダイナミックな鍋
 
最後はカルグクスで仕上げ
 
釜山のビール・マッコリで豪快にいただきます

2日目
 晋州へ
 
 
釜山西部バスターミナルから高速バスで晋州へ
(所要時間1時間半)
 
晋州の市場 果物・野菜が豊富


同行のメンバー 

晋州の研究所にお勤めの同行者のお兄様と研究所の同僚の方が案内してくださいました(向かって左のお二人。)その上、韓国通のわが韓国語教室の先生も同行の最強のメンバーです

先ずは昼食
 
  地元の人々に大人気の長い行列が出来ていたユッケ(牛肉の刺身)の店へ 
ユッケもユッケビビンバも初めての体験だったけれど食べやすくておいしかった。  

ユッケとマッコリ 
 
ユッケビビンバ
 
エイの刺身の和え物
カオリ フエ ムチィム
 
 
泗川(サチョン)市の倭城 船津里城へ (秀吉の朝鮮出兵時の日本軍築城の城へ)
 今から400年以上前の秀吉の朝鮮出兵で戦国時代の名立たる大名が当時の李氏朝鮮に出兵した。この船津里城は島津義弘・忠恒親子が築城・駐屯した。明・朝鮮連合軍と死闘を繰り広げた場所である。  
 
再興された城門 
  
塀の瓦の紋 揚羽蝶
島津義弘が城を築いたとのことだが・・・誰の紋?
 
この説明文を訳してみると
 「壬辰倭乱の時倭軍が戦の足場を準備するために築いた日本式城郭。泗川から北側に7KMの距離で船津里北側の低い丘に位置している。明と朝鮮の記録によると、城内には多くの建築物があり、城の外にも、堀と木の柵が設置されていた。1597年(慶長2)10月29日から12月27日まで毛利父子(毛利吉成、毛利勝英)など11名の倭将が城を築いて、島津父子(島津義弘、島津忠恒)が駐屯し、、明国軍隊との戦闘も行った。三面を海で囲まれた位置選択は、壬辰倭乱が終わった後、我が国の築城にも影響を与えた。」とさりげない文章が書かれているが、実際には明・朝鮮連合軍4万余と激戦が繰り広げられた城だそうだ。
 
 
天守閣跡は桜の名所
 
毎年天守閣跡で大桜まつりが開かれる。
 
朝鮮水軍 李舜臣将軍泗川海戦勝利の記念碑
碑の下部には李舜臣将軍の華々しい戦績が記録されている。
 
泗川市の観光案内図の前で記念撮影


泗川市 三千浦サムチョンポ公園へ
 
 この海域は李舜臣水軍将軍が華々しい戦績を挙げた海域のため、その資料が展示されている。 
 
삼천포(三千浦サムチョンポ)公園
李舜臣将軍の亀船
 
삼천포(三千浦 サムチョンポ)公園
世界最初 泗川海海戦で日本の船13隻と兵士2600余名を撃沈して勝利した李舜臣将軍の亀船である」ことを表示している

晋州 南江流灯祭へ
晋州流灯の伝来
 (2013 晋州南江流灯祭りのパンフレットより)
 「
晋州の南江に流灯を浮かべる流灯遊びは、壬辰の乱(文禄・慶長の役)の晋州城戦闘から始まった。1592年10月、金時敏(キム・シミン)将軍の率いる3800余名にすぎない守備軍が、晋州城を侵攻した約2万名の日本軍を大きく撃退したことは壬辰の乱(文禄・慶長の役)の三大大勝として記録されている。この時、晋州城では城外の義兵などの支援軍との連絡を取るための軍事信号として風灯を上げたり、たいまつと共に南江に灯火を浮かべてたりして南江を渡ろうする日本軍を阻止する軍事戦術として使われた。そして、遠く離れた家族に安否を伝える通信手段としても使われていた。
 1593年6月晋州城は約10万の日本軍により占領された。現在まで晋州の人々はこの戦いを癸巳殉義として称えている。癸巳殉義の後、当時戦死した7万の民.官・軍の魂を称えるために流灯を浮かべた。この伝統が綿々と続き今の流灯祭りとして定着したものである。」

  

晋州南江流灯祭

 晋州城東の門 矗石門(축석문)

突き出ている岩が義岩。妓生のノンゲがこの岩から日本の武将を抱えて川に飛び込み殉国したという

義岩の説明版
義岩  
 文禄・慶長の役(韓国名 壬辰倭乱)の第2次攻防戦で晋州城を守っていた民・官・軍20,000人が全滅。
矗石楼で日本軍の祝宴会が開かれていた時、妓生の論介(ノンゲ)が国の仇をとるために、加藤清正の武将の一人を抱きかかえてこの岩から飛び込んで殉国した。この論介(ノンゲ)殉国精神の話は韓国の教科書にも載っていて、愛国の殉国者としていまも讃えられている。
 
日本軍大勝の祝宴会が開かれたという矗石楼

日本の武将を抱き込んで義岩から南江に飛び込み
殉国した愛国者論介(ノンゲ)を祀る祠と肖像画 

第1次晋州城攻防の時活躍した金時敏将軍の像

場内のあらゆる場所で守衛軍の人形が立っている

広い晋州城を守る兵士の模型

楽師の兵士にも点燈された

南江の両岸はすべて屋台街

夕食は屋台でキムパブ クッパブ チヂミ トンドン酒
 
午後6:00~23:00点燈

矗石楼も美しくライトアップ 
 
 
何故か自由の女神も
 
 
ここで並んで写真を撮ると無事結ばれる?
 
「願い提灯」 約3万個が飾られている
 
提灯1個当たり1万₩ 約1000円
それぞれ願い事を書いています。

  この期間中だけ南江の真ん中に作られた浮橋
65歳以上は無料で通れます


3日目 晋州から昌原市 熊川倭城へ
 宿泊したGood Stay Eden Motel から仲間の兄上様の車で、まずは晋州の晋陽湖を観光の後、昌原市のバスステーションまで送ってもらう。そこで帰国する二人の仲間と別れて我々は鎮海へ向かう。

晋州 晋陽湖を展望台から遠望
 

昌原バスステーションから、タクシーにて鎮海駅へ

バス315で鎮海駅前から30番目 熊川城へ
   

先ずは昼食 クッパブ定食

前方の山 熊川城に向かって工業団地の造成地を突き切ります
 
 
倭城 熊川城(ウムチョンソン)
 1593年小西行長が構築、守備したところで、文禄・慶長の役で 日本軍の第1基地
山上に本丸を置き 尾根に沿って第1外郭、第2外郭が秩序よく配置、築城されている。
 
熊川城の入り口の看板
 
途中の案内板
 
第2城郭?
400年以上経っているがしっかりとした石組みが残っている
 
第1城郭?
  
本丸付近から海を臨む。今は埋め立てが進んでいる鎮海湾
 
本丸のあった頂上には英文とハングルの説明文がある
頂上の標高は135m
 
 頂上本丸に設置された説明文
ハングルの説明文を読んでみると
「この熊川倭城は壬辰倭乱の時、倭軍が長期戦に備えて我が国に築いた18個の城の一つである。ここの地形は海側に突き出ていて、北側は能浦湾にかかっている。倭軍の数百隻の帆船を停泊させるのに適当であった。また、安骨浦、加徳島、巨済島等に駐屯していた倭軍との連絡に便利な地域であった。このため、倭軍の将 小西行長はここに陣を置いて倭軍の第2基地(第1基地?)として使用した。ー中略ー
 城の構造は日本式で、山頂に本丸を置いて下側の稜線に沿って、第1外郭、第2外郭を各々配置した。そして陸地側の防備のために両側に異なる城を置いた。元来城の広さは約15000余㎡程度、高さは地形により約3~8 m程度で、大部分がこわれて今日では山以外、尾根の稜線の山頂への道が700~800m、高さが約2m程度残っているだけだ。
この城は南山倭城として今まで補修したことがないために、16世紀倭城研究に良い資料となった。」
 

バスで釜山へ
  教室仲間と合流して西面で夕食 「スギネ」 地下鉄西面駅6番出口をでてすぐ
今回の旅は豪快な韓国鍋、チョンゴルづくし。

スギネ 「貝の韓国鍋」チョンゴル
 
貝類満載、生きた蛸も加えられてふたをして5分

東莱温泉 ノクチョンホテル オンドル部屋に宿泊  

 4日目

東莱地区を散歩の後 空港へ

 失敗その2
<台風で帰国便がキャンセルされた
!> LCCに乗るならパソコン等WEBにつながる通信手段を用意しておくことは必須であることを思い知った。
 
  宿のテレビで台風情報を見た限り、まだキャンセルされることはないと踏んで空港へ。
ところがキャンセルされている。窓口で説明を聞くと、①払った費用は全額返金する。②後のことは電話で。窓口の説明はこの2つを伝えるだけ。後の処置は全くしてくれない。電話もなかなかつながらない。結局すべて自分で帰国便を探しなさい、ということ。パソコンを持参しておれば、すぐホームページで処理できたが、今回は持参していないので、娘に電話して調べてもらうと、次の日も満席とのこと。この時期は、釜山国際映画祭、晋州の流灯祭などで満席であった。たとえ空席があったとしても、パソコンがなければお手上げだ。

 結局、アシアナ航空の航空券を買ってその日に帰国した。帰国便だけで二人分6万円、高い!
 
 今回はいろいろついてないことも多かったけれど内容は充実していて、次のステップにつながる旅であった。

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